資本主義が終わる時代に現れる生き方とそれに必要な場所4
さてそんな訳で商店街が今のところまだちょっと弱い、って
言うことが分かったところで、
ようやく本題のそれに必要な場所=広場っていう話に入れる訳ですが、
実はこの話、話がありそうであんまりない。
なんでかっていうと、前回のエントリまでの話は、
実際今もう起こっていることを考えてみた話ですが、
広場の話は、あくまで私が必要、って思うだけの話だから、
根拠もエビデンスも何も無く、
先日のエントリに書いたふわふわしたイメージしか無い。
なにかたくさん人がわいわい集ってて、なんか楽しそうにしていて、
たまたま通りかかったら楽しそうにしてたからちょっと覗いてみて、
お、なんかお店いっぱいあるじゃん、ってなって、
寄ってみよ、ってなっちゃうようなそういうことを
引き起こしてくれるような場。
その場所を目的として見に来る人もいるかも知れないけど、
同時に人をひき込んでしまうような場所。
そういう場所が常に開かれてオープンな場としてある
ただ、話の飛躍と言われようが、広場があった方が、
きっと町がよくなる、っていう気持ちは切実にある。
それはわずかばかりの広場での実体験を通して思ったこと。
今は無くても、それが無い方が良いっていう理由にはならないですもんね。
それで、肝心の広場の話をしてみると、
まずは、商店街の一角の空き地を
広場として使うって言う方法でもいいとおもうんです。
(そこに余計な車が突っ込んでこなければ。)
以前、倉敷に行った時に、こんなエントリを書いた訳ですが、
(これはどちらかというと街並について書いたエントリ)
倉敷駅からエントリに書いた街並保存地区に行く前までに、
昭和的な商店街があって、やっぱりシャッター通りに
なっていそうな雰囲気もあったんだけど、
たまたまその日が土曜日で朝市をやっていたんです。
で、朝市が商店街の通りで行われていたんですが、
普段は駐車場スペースとして使われていそうな空間が
その時は、簡易な椅子やテーブルが置かれて、
買ったものを食べられるスペースになっていました。
そこで結構みなさんが食事を楽しんでいました。
これもある意味簡易な広場。
もしくは、神戸に行った時に見たのは、
神戸の中華街の真ん中付近にあった、ぽかっと空いた空間。
ここはちゃんとデザインされた場所なのですけど、
そこにあずまやとかベンチ的なものが置いてあって、
そのまわりで売られている肉まんやらちまきやらをみんなが
思い思いに頬張っていて、うわ、ここぜったい広場!って思いが溢れました。
たぶん、神戸市民のここに来る率は高いに違いない。
っていうのが、取りあえず商店街の一角に作れば
いいんじゃないっていう話。
でも本当は、街のとても象徴的な場所に、
ずばーんと広場があるといいな、と。
片側が海に開けてる、とか、片側からは富士山の雄大な眺めが見える、とかね、
なんかこう、広場全体に方向性があって、
(シエナのカンポ広場だと、すり鉢状=地面が斜めになっているので、
自然と座る向きが決まって来るのです。)
人が同じ方向に座る方が同じ方が、広場として落ち着くし、
視界の抜けがあった方が、気持ちよさはアップする。
そういう視覚的な効果もちゃんと発揮されているようなそういう広場。
(じつはまだ多分日本にない気がする。もしあったら教えてください。)
これからの生き方をする人たちが、そういう象徴的な場で
自分の小商いを毎日楽しそうにやっていたら、それはもうものすごい主流力ですよ。
来た人来た人みんな巻き込まれちゃうに違いない。
そしてそういう視覚的な効果を持っている場所だったら、
単に、商いの場所として有名になるんじゃなくて、
シエナにとってのカンポ広場のような、
その都市を表す場所になります。
新しい生き方を目指す人たちがつながりを求めて移住して来るだけじゃなく、
観光客だってふえちゃうかも知れない。
そんな一石二鳥のポテンシャルを、よくできた広場はもっている。
今はそういう場をつくる時代なんだと、ちょっと切実に思うのです。