ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

広場が欲しい

唐突ですが、広場が欲しい。

何で欲しいかって?


だって、広場があれば、

街中のレクリエーション度合い、

もしくは街の楽しさ度合いがぐっと高まるんですもの。


イタリアのカンポ広場。みんなのんびりしてていいですね。



よく分からない? 

街の中に必要な場所

以前、「理想の商店街」っていう記事を書いたときに、

街中が通過交通の場所でしかなくなっちゃった、と書いたんですが、

人が、生活していく中で街中でするアクティビティって、

幾つかあって、今現在の街でできるのは主に

消費行動(買い物)と通過交通(移動)。



街のアクティビティはここまでシュリンク(縮小)させられてるけど、

人は消費行動と通過交通だけでできているのみにあらず、なはずで、

人はもっと街中で色んなアクティビティがしたいはず。そしてしてるはず。

そしてしなければどこかいびつになるはず。




端的に言うと、スターバックスに代表されるカフェの流行。

流行と言うより、定着した感のあるカフェは、

もうほとんど私たちの生活の一部。




スタバのインサイトか社是か、スローガンか、とにかく

創業の理念に「サードプレイスを提供する」

というのがあるらしい。

家でもない、会社でもない、第三の場所。

日常から離れて落ち着ける場所。



スタバって言うと消費行動の一部に入っちゃうけれども、

その目指しているものは

コーヒーを買わせる場所、ではなくて、

人が生活の中に非日常を持てる場所、になること。

そういう非日常で過ごす、という新たなアクティビティを作り出すこと。



カフェそのものはヨーロッパで生まれて、

それをアレンジしたのがスタバ。

それを輸入してきて、

アジアでも繁盛しているということは、

このアクティビティに対する需要というのが

欧米、アジアに拘わらず、あったってことですよね。

もちろん日本でも。



このスタバの例で、

今日の本題、消費行動と通過交通以外にも

街中でするアクティビティはあるんじゃないのか?

という問いに対する答えが、少しクリアになってきました。




つまり日常生活の中に、

何かこう、余暇の時間といったら古めかしいけれど、

目的を持たずにぶらぶらする、

ぼーっとする時間っていうのが、必要だってこと。

もしくは日常から離れて、バカ騒ぎをする時間も必要だってこと。

もしくは人と目的のないおしゃべりをする時間も必要だってこと。

そういう時間を過ごせる場所が、いる。




それが広場です。





広場が叶えること

そもそもカフェがヨーロッパで生まれた、といったけれど、

言ったら、広場の脇でカフェが生まれた、って言える位じゃないのかしら。

(カフェ文化の発祥、みたいな本を読めば出てくるはず。)

つまり広場があったからこそ、カフェが生まれたっていうこと。




広場はさっき挙げたような、目的を持たずにぶらぶらすることも、

ぼーっとすることも、日常から離れてバカ騒ぎをすることも、

人と目的のないおしゃべりをすることも、全部出来る場所。



正しく言えば、広場が街中のホットな場所=アクセスしやすい、

みんなが来やすい場所にあるかどうかや、

そこから見える景色が気持ちいいかどうか、長居したくなるものなのかどうか、

広場を囲うものがどういうものなのか、

あまり高すぎる建物があるとNGとか、諸条件はあるにせよ、

そういうのをクリアした広場は、なかなか素敵な居心地の良い場所になるはずです。

明治になるときに広場が日本に取り入れられなかった訳

樹先生の新しい新刊「日本辺境論」をこの間読みました。

この本の骨子は、日本人は中華思想のはじっこにいたので、

外来のものを主流として押し頂く習性がある、という洞察でした。

最近は更に、NHKでドラマも始まった、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を、

遅ればせながら読んでいるんですが、

確かに日本辺境論で書かれるとおり、

明治の初めの国造りには、欧米の軍隊作りや、憲法や、教育のやり方を

旺盛に吸収していっています。



ただ1つ残念なのは、この大きなチャンスに、

建築面では、西洋風のレンガ造りの建物単体を銀座や横浜などの都心の一部に

建てるものの、都市全体のストラクチャーに手を入れようとはしていないということです。



もちろんそのときは富国強兵、欧米と肩を張れるような列強になること、

というのが目標だったので

例え、「ヨーロッパの日々の生活には広場が欠かせない要素で、

日本もそれを取り入れなければならない」と

(日本人的に短絡的に)考えた人がいたとしても、

そんな生活文化を向上させるなどという

やわなことにお金を使う理由などあるはずもなく、

なし得てないんでしょうが。




又はその時はまだまだ第一次産業が盛んで、

ということは職住接近で、イコール近所の人との往来も様々にあり、

村のお祭り、町のお祭りもすたれておらず、

人が孤独に生活をするような状況に無かったことを思えば、

そのような広場を取り入れずとも良かったってことなのでしょうね。


大正昭和初期にも広場がとりいれられなかった訳

じゃあじゃあなんで、もうちょっと時を下って、

大正昭和初期に東急や西武や京王が東京西部に

ゼロからの宅地開発をしていったときに、広場はとりいれられなかったのか?



私がこの理由を勝手に推測してみましょう。

今日でも日本の高級住宅地として有名な田園調布。

これを開発した田園都市株式会社は1918年に田園調布・洗足などの

街づくりのために設立されたらしいんですが、(@東急電鉄沿革)

1919年には、どういう街作りをするかを欧米から学ぶため、(おお、やはり辺境的!)

発起人の1人である渋沢栄一の四男渋沢秀雄

田園都市視察に欧米11カ国訪問しているそうです(@wikipedia)





で、一体この時期に欧米はどういう街を作っていたかというと、この時期の

「フランスモデルとイギリス、アングロサクソンのモデルはだいぶ違って、

フランスは都心のアパートに住んでいくけれども、アングロサクソンでは、

ブルジョアはどんどん郊外に行くというんです。(中略)どうしてそれが

起こったかというと、人口増であるとか、

犯罪率の増加であるとか言う普通の説明だけではなくて、

貧乏人くさいという感じの覚醒であったらしい。

つまり、都心部は結構不衛生で汚くて、昔のパリなんかアパートの上の階から

平気で糞尿を下の街路に落としていたりしたわけだけれど、

それが衛生思想が進むことによって自覚されていく。

それから夫婦を基準にして家族が1つの閉鎖的な愛情空間で結びついたという。

(中略)

つまり、従来の結婚は、愛情が主なモチーフではなくて、財産の維持であるとか、

共同して生産するとかという経済的なモチベーションでくっついていたから、

子どもがどんどん死んじゃっても大して愛着を持っていなかった。

それが子どもの死亡率も減ってくるし、女性も仕事を分担していたものが、

宗教的な問題として国教会の中で福音主義が起こって以来、

女性は弱いものだから、家にいて、守らなければいけないと替わってくる。

要するに都会の色々なアクティビティは悪である。

都会と家を分離していかないといけないという宗教的な趨勢と今みたいな話が重なっていって、

まず郊外にウィークエンドハウスをつくっていく。

週末が終わると、家族毎都心に戻っていったんだけれども、

段々家族が戻らなくなった。臭いところに行くのは嫌だから。

亭主だけ通っていくという感覚です。

そういうような経過で近代住宅が出来ていったという話をしています。

これは、1800年、つまり19世紀の頭に、大体そういう傾向が起きている。」(@私たちが住みたい都市p158)





1900年代の初頭にはエベネザー・ハワード(Ebenezer Howard, 1850-1928年)が

提唱した田園都市(Garden City)がロンドン郊外のレッチワースが誕生しています。

渋沢秀雄はこのレッチワースを見て、田園調布のモデルをここに見定め、

事実、田園調布はこれをモデルにつくられています。

そして、この後、ニュータウンといわれる新たに作られる街は、

このタイプの街がほぼ全てでした。




現在でもレッチワースは美しい街として残っているようですが、

田園調布は相続税の厳しさからか、敷地面積は徐々に小さくなっているようですし、

田園調布以外の街では、そもそも田園調布ほどの敷地面積はとれず、

更にハワードの理論で求められた職住接近の理想は実現されず、(田園調布でも)

ベッドタウンとしてしか実現されなかった現実があります。




まあそんな歴史的タイミングのせいで、

日本の新たな街作りは、ヨーロッパから学んだと言っても、

何百年と歴史のある中心市街地のつくりではなくて、

ある意味ポッと出の理念を学んでしまって、

しかもそれをレッチワース的規模でやれるならともかく、

その一部だけを当て続けたのが、っていうのが事実なんでしょうね。

だから広場は日本の街に作られなかった。

残念です。


そんなこんなで広場は今現在日本の街には無いわけですが、

広場を日本に取り入れることは可能なのでしょうか?

続きはまたいつか。