ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

広場が日本に出来なかった理由2〜都市のなりたちの違い〜

さあ昨日ググった中から、諸説あるんですけど、

これはそうかも!っていうのを、あくまでも主観で書いてみます。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 Q、西欧と比べ日本は民衆が集う都市広場が圧倒的に少ないと思います。

 

Wikipediaでもいまいち理解できません。

 

日本の支配階級や宗教が民衆を集うことを嫌う風土があったのでしょうか?

 

 

 

 

A、wakka_obgy07さんより

 

ヨーロッパの都市の多くは、ローマ時代に起源を持ち、

 

中世後期の商業の復活とともに商業都市として成立したものが多いのです。

 

もちろん、大規模な教会などを中心に成立した都市も存在しますが。

 

いずれにせよ、支配者である領主などの騎士階級は都市ではなく、

 

郊外の荘園などに立地する城壁などに居を構えていた訳です。

 

つまり西洋の都市は、少なくともそこを構成する上級市民、中級市民の

 

ための場所であったわけです。

 

やがて近世に至り、絶対王政が成立するとともに、

 

都市は、その国家の支配の拠点としての役割も生じてくるのですが、

 

その前に都市は商人や市民のものであったという成立過程が

 

あったわけなのです。

 

日本においても、都市の成立期とも言うべき戦国時代末期においては、

 

交通、輸送、商工業の拠点に都市が築かれ、実質そこを支配する豪商たちの

 

勢力が際立った時期もあるのですが、

 

戦国末期に城下に都市を再編成する動きがあり、日本の都市の多くは、

 

江戸であれ、大阪であれ、名古屋であれ、軍事都市としての

 

側面をも併せ持った性格のものが中心となるのです。

 

 

都市における空間や場は、必要に応じて構成されてゆくわけなので、

 

市民が中心であった西欧の都市と、武士階級が中心であり、

 

城塞を支える機能が求められた日本の都市では、広場なるものの

 

必要性が異なったということだと思います。

 

 

明治以降は、城に隣接した都市では、城の多くが毀損され、

 

公園や広場になっていますよね。

 

あるいは防災の意味で、広い空間や幅の広い大通り

 

(広場の代用も可能なレベルの)なども作られました。

 

市民の都市から始まったのか、

 

城下町として始まったかのちがいなのではないでしょうか。

 

 なるほどねぇ…。成り立ちが違うわけか…、と思って

イタリアの中世の都市の成立についていろいろ調べていくと、

イタリアの都市は、中世の商人、しかもかなり裕福な大商人、という人たちが、

自分たちの住んでいる都市の自治権を封建領主に抵抗して獲得していった

という経過があります。

 

商人たちが主に運営する都市=コムーネが作られていく中で、

広場も都市を形成する大事な要素として、必ずとりいれられるようになった…、

という訳でしょうか。

 

反対に、日本の都市では、城塞としての要素が強かったので、

都市を守る機能に重点が置かれて、広場的な要素が必要とされなかった、

ということのようです。

 

 

引用の最後にも書いてありましたが、

なにかが出来る、なにかが流行って定着する、というのは、

必要があるからこその話な訳で、それは古今東西変わらないんですね。

 

日本の都市の出来た時代には、敵から町を守る、

という機能がまず第一に必要だったんでしょうが、

必要とされるものががらりと変わった現代、

広場って言う機能を町に埋め込んでいくのは、悪くない選択肢な気がします。