広場が日本に出来なかった理由3〜道はやっぱり広場だった〜
広場が日本に出来なかった理由シリーズ。
なんとなく道が怪しいんだよね…と当たりを付け始めているのであります。
西洋と日本、にぎわいの形の違い
槙文彦(まきふみひこ)が著書「見え隠れする都市」の
中で、西欧の都市構造を「中心ー区画」になぞらえ、
日本のそれを「奥ー包摂」と表現した
オーギュスタン・ベルクも「空間の日本文化」で
この著述を惹きながら、さらに、
「伝統的な日本の都市における広場の欠如」と
「日本の都市の場合、西欧では広場で繰り広げられる活動が、
一般に街路を舞台に行われる」点を指摘する。
(中略)
公共性の高い拠点的な施設があり、
そのまわりに人間活動(アクティビティ)が収斂(しゅうれん)する
舞台的な場の代表が、欧州では広場だとして、
日本の空間文化でそれに相当するのは
大路(おおじ)(つまり広い幅員の街路)や
寺社の境内、あるいは名所と呼ばれる景勝地(けいしょうち)や
河川敷(かせんじき)や橋詰(はしの終わっているところ)であったろう。
ここ数日間、広場、なんでなかったんだろうな〜、
広場っぽい賑わいは、江戸(日本)にだってあったはずだよな〜、
と考えていたんですよ。
(この間載せたこのイメージとかね)
(↑広重の名所江戸百景ー猿わか町夜の景(さるわかちょう よるのけい)です。
どうですかこの良い感じに栄えている様子。めっちゃ広場の香りがする。)
イタリアの道と、日本の道の幅の違い
で、「道」が広場になっていた、という説。
うーん、うーん、と考えていたところに閃きが。
広場って、こんなですよね。
真ん中の黄色い部分が広場。そして、細い道がその広場にくっついています。
イタリアは広場以外の街区は基本的に狭いです。
大好きなシエナのカンポ広場周辺道路は、3mくらいが平均。
(上の図の青く塗ってある細いところ全部ですね。)
それに比べて、江戸のメインに使われる道路はどうも広い。
今googlemapで調べられるわけじゃないけれども、
うーん、なんで広いんだ?と思ってたら、
火事のせいでした。
明暦(めいれき)の大火っていうのが
大変な火事らしくて(てきとう)
そのとき江戸にあった60%を焼いちゃったんだそうです(てきとう)
その反省を活かして、
道路幅を広げて、火が燃え移らないようにしたのと、
広い空間をつくっって(火除地、ひよけち)
これも火が燃え移らないようにしたり。下にリンクしたページを参照すると、
こんなことを書いてあります。
その明暦の大火の後、幕府からお触れでこう指示してあるそうです。
道は、京間5間(きょうま5けん)、あるいは、6間(6けん)
日本橋通町の分は、田舎間10間(いなかま10けん)、
本町通りは7間(7けん)
道っていうのは、なんだろう、多分江戸の割と中心的な道のことか?
京間1間は1.96m、つまり約2m。
なのでわりと中心的な道は、10mから12m。
参考まで、江戸一番の通りといってもよい日本橋通りが田舎間10間。
田舎間1間は1.82なので、日本橋通りは、18m強。
同じく本町通りは7間なので、13m弱。
うん。広い。
道路の幅を比較してみよう。
さっきのイタリアの図と縮尺を揃えてみるとこういう感じ。
こちらイタリアの道路。
こちら江戸の道。
一番上の12mっていうのがそこそこ大きな通りの標準的なサイズ。
うーん、なんかこんなに広々してたら、この通りがもう広場だよねぇ。
しかもその頃は自動車も馬車も走っていないとしたら、
歩いている人しかいないわけで、そりゃあ広場だよねぇ…。
しかも火除け地、っていうのはこの道路よりさらに広かったそうで、
そうなったら、もうそりゃ広場で、
しかも火除け地というのは、防火対策が進んで行った江戸後期には
完全に盛り場として栄えたそうです。
どうですかこの下の写真。もうこりゃ広場だ。
道が広場説、かなり信憑性がありますな。
イタリアの広場は丸く、日本の広場は細長い。
つまりまとめますと、
イタリアでは、石造りだったので特に延焼の危険などなかったので、
家々は隣り合ってたくさん建ち、道は細くとられて、とても狭い代わりに、
都市のそこここに空間をとって、開放感やイベントをする為の
場所をつくり出していた。
日本では、木造だったので、火事を避ける為に道を広くとり
延焼を防止した。
ただ、道が広くなったので、たくさんの人がそこを行き来できるようになり、
そこが日本での広場的な空間となった。中心は無いし、元々は道なので
(立ち止まったりせずに歩き続けないといけないし)
細長い空間ではあるけれども、役割的にはとても広場っぽい。
ってことで良いでしょうかーーーー!!!!!