ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

ジッテ先生のお説教。

ジッテ先生に聞いた現代の都市計画の問題点を現代訳&意訳してみます。

 

現代の都市計画に置いて、あきらめなければならない芸術上の

モチーフの数は想像以上に多い。繊細な感情を持っている人にとって、

それを認めることは確かにつらいことであろうが、実際的な芸術家は

そうした感傷的な弱さに引きずられてはならない。

 

今時、都市計画の中に芸術的なモチーフをつくりたいって思っても、

なかなかそれが許される時代じゃないんだよ。

ナイーブなやつにとっちゃ、それはちょっと厳しい状況だろうけど、

できる芸術家はそんなんでへこんでちゃだめなんだよ。

 

また、見た目に美しい計画によってえられる成果にしたところが、現代生活に適合していなければ、確実でも持続的でもないだろう。 

 

それに見た目だけ良く作っても、

今の生活に合ってるもの作らなきゃ、意味ないでしょ?

 

私たちの公共生活において、多くのものが取り返しのつかないほど

変わってしまったし、古い建物の形態もかつてもっていた本来の意味を、

全面的にせよ一部分にせよ失ってしまった。

 

もう昔の生活とは、公共的な生活ってやつが全然変わっちゃったし、 

昔の建物だって、もともとは使われてた理由とか意味とかあったけど、

そういうの今はもう全然変わっちゃったでしょ?

 

今日、公共の出来事は、古代ギリシャやローマにおけるごとく、

古代ローマ浴場や広場の柱廊の下で公共触れ出し人が公布するかわりに、

新聞が伝えてくれる。私たちはこの変化を認めることが出来るだけだ。

 

昔はさ、世の中のニュースは、浴場や広場の下で「お触れじゃ〜」って言って、

 貼り出されたもんだけど、今は、新聞が伝えてくれる。

 

たとえ市場がますます広場を離れ、ろくに美しくもない建物の中に

閉じこもったり、直接配達の方式をとるようになったとしても、

私たちには何も出来はしない。 

 

普段の買い物をするところが、広場じゃなくなって、全然綺麗じゃない

建物の中に入っちゃったり、自宅に直接配達されるようになっちゃても、

俺たちに出来ることは何もないわけよ。

 

 またたとえ水道設備によって水が直接、家と台所に届くため、

噴水に装飾的な価値しか無くなってしまい、

人々が遠ざかってしまったとしても、私たちには何も出来ないのである。

 

水道が普及しちゃって、蛇口ひねれば水が出るようになっちゃったから、

噴水のある意味が無くなっちゃって、

人が噴水にいかなくなっちゃっても、それもしょうがないわけよ。

 

芸術作品は広場と道を豊かに飾るかわりに、あの博物館という

牢獄に逃げ込んでしまう。興趣に富んだ民衆の祭り、謝肉祭の行列、

宗教行列、野外で催される芝居などもほとんど消えてしまった。 

 

芸術作品は広場とか道に飾られるかわりに、博物館に押し込められちゃうし、

いろんなお祭りや、野外で行われてたお芝居もみんな無くなっちゃった。

 

何世紀も前から、民衆の生活は次第に公共広場からひきさがり、

広場はその大部分の重要性と象徴的な価値を失ってきたのである。

美しい広場というものがどんなものでなければならないかということを、

おおかたの人が知らないのはこのためなのである。 

 

もう何百年も前から人々の生活は広場を使わないようになっていて、

広場が重要な役割を果たしてきたこととか、象徴的な場所だったこととか、

そういうのはだいぶ失われてきてしまった。

みんなが広場を使わなくなったから、美しい広場っていうのが、

どういうものじゃなきゃいけないかってみんな知らないんだよ。

 

(なんかジッテ先生、べらんめえの江戸っ子って感じの言葉遣いですね。)

 

(で、一通り嘆いているジッテ先生なんですけど、でもこれだけは

言っときたい、っていう名言がこちらです。)

 

このように多くの障害はあっても、今述べた試みを諦めるべきではない。

新しい建設方法や健康衛生上の必要、交通上の必要を考慮するあまり、

無数のピトレスクな(註:pittoresque=絵になる)美しさを断念し、

問題の芸術的解決を諦め、あたかも田舎道や機械製作でもあるかのように

純然たる技術的解決で満足するようにしてはいけないのである。

 

でもね、いろいろ問題はあっても、(美しい都市にするっていう)試みに

トライすることを諦めちゃいけないんだよ。

新しい建設のやり方とか都市は衛生的にしておかなきゃいけないとか、

道路の方が必要だとか、そういうのに重きをおきすぎて、

絵みたいな美しい都市や街をつくるっていうのは

どう考えても無理だって、はなから無理だって諦めて、

もうほんとに技術的な問題を解決するってだけのやり方で

都市を作ってくってのはダメなんだよ、ほんとに。

 

私たちの日常生活がいかに多忙だからといって、

完璧な芸術作品が私たちの中に呼びさます高尚な印象が余計なものだ

などと考えるべきではない。

都市計画においてこそ、芸術が最重要の役割を十分に果たすもので

あることを反省してみるべきである。

それは、毎日毎時間たくさんの人に教育的影響を及ぼすのである。

 

俺たちの日常がね、いっくら忙しいからって言って、

100%パーフェクトな芸術作品が、俺たちの心にひびくことや、

心の琴線に触れること、そういったものを余計なものだ、考えるに値しない、

とるに足りないものだ、なんて考えるべきじゃないんだよ。

都市計画の中でこそ、芸術的なことが

一番大事にされるべきだって考えたって良いくらいなんだぜ?

だって毎日、毎時間、ものすごいたくさんの人に、

影響を与えて、教育的な効果を及ぼすことができるものなんて、

都市や街よりほかにないだろう?

 

これに対して、音楽会や芝居のようなその他の芸術表現は、

恵まれた階級にだけ限られている。行政当局はこの問題に留意して、

芸術的観点から古人の原則と

現代生活の必要を一致させることが出来ることを

示さなければならないのである。

 

だってちょっと考えれば分かることだけど、

都市計画に対して、ライブとか、お芝居とかは

金銭的に恵まれた人たちだけしか享受できないだろ?

だから行政はさ、

芸術的に美しい都市を計画するっていう点にもちゃんと留意して、

古人の知恵と、現代生活の利便性を一致させた

計画を立てていく必要があるんだよ!!1

 

(ん、なんか最後女子っぽくなっちゃったよ。

べらんめえ+女子なジッテ先生でした。)

 

 

なんか、ジッテ先生の心からの訴えを聞いて最近感じたことを。

 

最近、もうすっかり桜が奇麗に咲きそろって、ここしばらくの雨風で

むしろ散りそうになっているわけですが、

今日、桜並木の中を歩いていて、

その桜色と芝生の緑とそこに咲いてる菜の花の黄色と、

もう全部が綺麗な色あいすぎて、

嬉しくて嬉しくて仕方なくなっちゃったわけですよ。

嬉しいな〜、嬉しいな〜、って連呼してたわけですが、

30代も半ばになって

涙腺が緩みがちになってるせいなのかもしれないんですけども、

嬉しさが過ぎて、今度は泣けてきちゃったわけですよ。

「綺麗すぎるぅぅうぅ…!」って。

 

つまりねこれがね、心の琴線に触れるってことだよな、と思って。

ジッテの言ってる“私たちの中に呼びさます高尚な印象”だよな、と思って。

 

確かに、街の綺麗さなんて見てもお腹がいっぱいになるわけじゃないし、

なんの物質的な豊かさももたらさないかもしれないけど、

でも確かにわたしの心を豊かにしてるよね、この桜並木の綺麗さは、と思って。

この綺麗さが生活を送っている街全体に拡がれば、

そこに住んでいる人たちの心がそれぞれ少しずつ豊かになるわけで、

それはある意味なにがしかの利益を生んでるじゃないの、と思ったのです。

(利益の問題じゃないですけど、そういう考え方もできるよねってことで。)