広場が日本に出来なかった理由1〜自庭を持つか持たないか〜
さて今日は、なんで広場が日本に出来なかったか、っていう理由を
同じくこちらの本から読み解いていきたいと思います。
できなかった理由:日本とヨーロッパの町のつくりが違う
このようなヨーロッパの広場に対して、
われわれ日本人は一種の憧憬(しょうけい)をもつが
そもそも都市の機能とその中での住まい方そのものが、
ヨーロッパと日本とでは大きく違っていたことを見落としてはならない。
自分の町家の中に坪庭や裏庭を取り込み、落ち着いた環境を
各家族が持つ日本の古い町では、広場という都市の
公共空間は不必要だった。
それは、家を中心とした地縁社会を支えるに
ふさわしい住まい方だったともいえる。
このような都市構造の為、わが国では、
住民の社会的活動が生まれる契機を見出だすのは難しかった。
(日本の古い街並)
(江戸の賑わい)
一方、城壁で限定された領域の中にぎっしり住むヨーロッパの町では、
貴族の邸宅を除けば各家々には庭らしきものをとらず、
空き地を公共スペースとしての広場に集中させるから、
日光浴にも、夕涼みにも、市民は広場へ出ざるをえない。
(建物がぎっしり詰まったヴェネツィア)
そこから必然的に人との出会いが生じ、個と個のぶつかり合いを通じて、
会話の妙、共通のルール、他者を尊重する態度、
あるいは政治的センスなどの集合的生活に
必要なものが形成されることになった。
広場には、あるとあらゆる世代の住民が集ってくるから、
子どもにとっては社会教育の場でもあった。
若いカップルの散歩を見て恋の仕方を自然のうちに身につけ、
老人から町の歴史について教わりながら、
人々の間で彼らは成長していくのである。
なぜ賑わいを受け止める場が、一つの形態として出来上がらなかったか。
広場的な賑わいは、生活していたら必ず出て来るものだから、
日本にもなかった訳じゃないと思うんだけど、
(上の写真の江戸時代の道の賑わいなんて言うのは、
ちゃんと広場っぽいと思うんだけどね)
その賑わいを受け止める機能を持つ場所をちゃんと一つの形態として
作り上げなかったのはなんでだろうなぁ…
とおもって考えたこと。
何となくだけど、日本古来の良くて素晴らしいもののイメージって、
静謐(せいひつ)とか陰影礼賛(いんえいらいさん)とか
茶道だとか、華道だとか、武士道だとか、
こう、背筋がすっと伸ばされちゃうようなイメージがありますけど、
(こういうね。素敵ですけどね。背筋が伸びそうです。)
こういう考え方やイメージが、ポリティカルにコレクトだと思われてたから
広場で行われるような享楽的なことは、
(実は結構楽しいんだけど、)ダメなものごと、って
思われてたんじゃないかなぁ…とか。
あくまでもサブ、けして本流じゃない行い、みたいな。
まあそもそも、市井の人の毎日の緩やかな賑わいなんて、
名前をつけたくても、つけられないだろうけど…。
とにかく、きちんと「〜道」って名付けられないような事柄に
公の場所なんて与える発想がそもそもなかった…みたいな感じだったのでは…。
広場が日本に出来なかったっていう理由は、調べていくと
諸説あって結構面白いので、もうちょっと調べてみます!