個人的な広場との出会いの話を聞こう〜小野寺康さん編〜
はい、勝手にシリーズ化しそうなこのタイトル。
しかも勝手に名前をタイトルにまでだしてすみません。
とても良い広場の本だったのですが、その中からあえて、
広場との出会いの部分だけ、抜き出してみます。
都市に居間を持つ人たち
それは確か、グラナダかセビリアの、さほど有名でもない小さな広場
だったと思う。夜もやや更けた月明かりの下、建物のスカイラインだけが
浮かび上がっていた。 そんな広場の一画にカフェレストランがあり、
屋外の席で地元の家族連れが数組、連れ立って食事をしていた。
レストランの内部から照らし出された明かりが逆光となって談笑する
人影を浮かび上がらせ、こぼれた光が路面を掃くように照らしていた。
大人達がワインを飲みつつ静かに、けれど容器に語り合っているその横で、
子ども達が広場で駆け回り嬌声を上げていた。
夏の欧州の夕暮れは遅い。夜更けまで人々はまちで過ごす。
それでも、こんな時間に子ども達が外で遊び、大人たちがその横で
食事をしている。
その光景が新鮮だった。
ーーーーーーー家ではなく、都市の中でこの人たちは暮らしている
そしてそのための場として、広場がある。
この光景は、数百年を超えて繰り返されているのだということが、
突然印象的に実感された。パブリックスペースというものの意味や
価値に興味を持ったのは、その瞬間だったかもしれない。
あの夜の広場の光景を見て、人間のアクティビティを受容し、あるいは生成
する舞台としての広場が、これからの日本の都市空間にも求められてくると
思えたし、この豊かさや楽しさを日本の都市空間にもどうにかすれば
創れるのではないかと直感した。
人が誰かに見惚(みと)れてしまう瞬間をみるのって結構幸せな気分になるけど、
人が広場に惚れちゃった瞬間を聞くのも結構幸せな気分だ。
自分が広場で体験できた幸せな瞬間を間接的に再現してくれるようで。
うーん、なんかちょっと興味をもったことって、
しばらくやると興味が薄れてしまうことって多々あるし、それは
とても自然の成り行きなんだけども、こういう話を聞くと、
広場が欲しいっていう気持ちがまた再燃しますね。