ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

良い広場を作る時に守るべき5つのルール その1

さあ、ちょっと時間が経っちゃいましたが、ジッテ先生の講義に戻ります。

 

広場の造形 (SD選書 (175))

広場の造形 (SD選書 (175))

 

 

 

今回はこの本のメインともいえる、

広場っていうのはどういうものなのかについてまとめてみます。

 

よい広場をつくる時に守るべき5つのルール

ジッテ先生によると、良い広場を作る為には5点のルールがあるそうです。

 

 

1、広場の中央を自由にしておくこと。

2、広場は閉ざされた空間としておくこと

3、広場の大きさと形

4、古い広場の不規則な形

5、広場群

 

この5点です。

1から順に粛々と説明をしていきたいところなのですが、

実は、このジッテの原則1番を読み込んでいて、

なんかどうも表題とその章で語ってる話がつながってないよな…

と思ってしまって、さらに考えて、はた、と膝をうった点がありまして、

今日はそれについて考えたいと思うのであります。

 

 

さて、先日から話してきた通り、この本のドイツ語の題の意味は、

「芸術的原理に即した都市計画」というくらいで、

都市は美しくあるべきだ、っていうどちらかというと

芸術的観点から都市を見た本です。

けして、この現代日本で昨今喫緊の課題である、

コミュニティが廃れてきてる、とか居場所が無いとか、

そういう類いの切り口から広場を語った本ではありません。

 

 

 1番目のルールの説明に矛盾を発見した。

5原則の中の1番目は、

「広場の中央を自由にしておくこと」です。

 

ただこの「広場の中央を自由にしておくこと」と題した章の中で

ジッテは、

・モニュメント(彫像とか銅像とか)と噴水をどこにおいたら良いか

・教会は広場のど真ん中にたてるべきじゃない

という2点からこの問題を論じています。

 

 

このモニュメントについてちょっと引用。ジッテ先生は歴史的に

広場のモニュメントは、広場の中心ではなく、外れたところにおかれた、

って言う話をしているんですが、なんでこうなったか、っていうのを

少し素朴なたとえ話で話しています。

 

そうした比較が出来るのは、冬の楽しみで人気のある雪だるまの場合で

 

ある。この雪だるまは普通、モニュメントや噴水が昔だったら作られた

 

ような場所につくられるのである。

 

それではどうしてそうした場所につくられることになるのであろうか?

 

それは非常に簡単なことである。

 

田舎の村の雪に覆われた何も無い広場を想像してみよう。

 

クルマがあちこちを通って自然に後を残し、その間に不規則な形に

 

分けられながら、汚れの無い部分が出来る。そしてそこに

 

雪だるまがつくられる。 というのは綺麗な汚れの無い雪はそこだけにしか

 

ないからである。

 

 この話は結構アフォーダンスだよな、と思って面白かったんですけれども、

ただちょっと、この点でこの

「広場は中央あけておくべき問題」を論じるのおかしくないですか?

だって広場の中央を自由にしておくといい、って言った後に、

なぜなら、って続けて

「モニュメントや噴水は広場の中央にあるよりも端っこにある方がいい」

って言われたら、ん?ってなりません?広場の話はどこへ?って。

そうじゃなくて、なんで広場の中央を自由にしておいた方が良いの?

って聞きたくなりますよね?

 

 

広場にモニュメント置こうと計画するとき、どこにおくと

広場が芸術的に一番美しくなるかって言う話だとしたら、

広場のど真ん中でも良いんじゃないの?

って聞き返したくなります。

 

実はジッテは、モニュメントは広場のど真ん中におくよりも

中心を避けておいた方が芸術としてより効果的だと説明しているわけですが、

それはそれで良いとしても、

それはけして広場の中心はあけておくべきだっていう

この章の命題を論理づけたわけではありません。

(なんかめんどくさい話し方ですみません。)

 

そうして結局解答を頂けないまま章が終わってしまったのですが、

うーんうーん、なんだろうなぁこの説明が足りなかったもやもや感…

って思いながら他のページを見て行ったわけです。

 そしてね、思い当たった。ここです。

 

中世とルネサンス期においても、貴重な装いを凝らしたこれらの広場は、

 

それぞれの都市の誇りと喜びであった。まさにここにおいて

 

人の往来が一番激しく、生き生きとしていたのであり、公共の祝祭が

 

行なわれ、出し物が上演され、公式の儀式が催され、法律が

 

公布されたのである。

 

(中略)

 

かつてのように市庁舎脇の市場の雑踏や、毎日の商売の生き生きとした

 

動きも今ではなくなってしまい、人の動きも活気も他へ行って、

 

公共建築のあたりなど、昔は一番賑やかだったところが寂れてしまった。

 

つまるところ、昔の広場の壮麗な特徴はおおかた

 

失われてしまったのである。

 

 

ジッテ先生もコミュニティ喪失に嘆いていた

 そうなんです、ジッテは、都市が美しくなくなってしまうことに

危機感を持ってこの本を書いているんですが、

同時に、広場がその往年の輝きをなくして、人々の活気が

無くなっていくことも同時に嘆いているんです。

つまり程度の差こそあれ、現代日本の悩みである

コミュニティの廃れと同じようなことを嘆いてるわけです。

 

そしてジッテは(何度も言うように)この本の中では、

あくまでも往年の広場の芸術的・美術的特徴を捉えてそれを活かせば、

昔のような広場を取り戻せるだろう、と語っています。

 

ただ実は、この命題の1番だけは、

芸術的特徴というよりも、

実は広場が広場として機能する為のもっと本質的な特徴なのでした。

だから芸術的にうんぬん、って言う話でまとめようと思っても、

ピンと来ないんですね。

 

モニュメント、みたいな広場の付随物のことで語られても、

ぽかん、と口を開けてしまうわけです。

だって究極言ったら広場はモニュメントも銅像も無くても成り立つわけで。

何にも無い空間でも、まわりに大勢の人がいれば、

広場が出来ちゃう可能性も大いにあるわけで。

(ジッテ先生、めっちゃdisってすみません汗)

 

 

(2番目の教会は広場の中央に無い方が良い、なぜならその方が

教会の正面がよく見えるって話していて、そちらのほうが

まだうなずけるな、って感じなのですが。)

 

まあ別にdisるつもりではなくて、

ジッテは、芸術的に広場を美しくさえすれば

自動的に広場はまた活き活きしはじめるだろう、って考えたってことなのですね。

 

 

芸術的に美しいことと、広場が活き活きしているってことは、

関連する部分もあると思うんですが、イコールって訳でもないっていうのが

今の時代の実感です。そんな短絡的に上手くいったら訳ねーよ!みたいな。

 

ただ、ジッテ先生の時代にはまだそこまでコミュニティの場所が無い、

みたいな社会問題はでてきてなかったはずなので、

それはしょうがない話でもありますしね。

 

 

というわけで、ちょっと重箱の隅をつつきすぎたかな感もありますが、

広場は真ん中をちゃんとあけとけよ、じゃなきゃ広場って呼べねーよ!

っていうジッテ先生の一番目の訓戒は確かに正しい、というのが

昨今の事情にございましたですはい。