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資本主義が終わる時代に現れる生き方とそれに必要な場所1

個人的な話を進めてきたけど、ちょっと最近読んだ本の話をさせてください。

しかし、まあ、なんて仰々しいタイトル。

いや、最近ね、「資本主義の終焉と歴史の危機」って本を読んだんです。

 

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

 

 いやめちゃめちゃ資本主義なamazon経由の

こんな紹介ブログを貼るのもなんなんですけど、まあそれは置いておいて。

 

面白かった!

内容について、詳しくは読んで頂くとしても、

経済について、資本主義について、その発生からいま崩壊に至るまでの過程を

こう一本筋が通ったというか、糸が通った感じで

説明してる本を読んだのは初めてです。経済本に疎いということを差し引いても、

というよりむしろ、経済にうとい素人にも分かりやすい本。

簡単に言っちゃうと、

資本主義は、中心と周辺があるからこそ成り立つ主義なんだそうな。

西側諸国と途上国というように、途上国から安く資源を持ってきたり、

途上国での人件費を安く使って、製品を作って、西側諸国の価格で売る。

だけどだんだん途上国が成長をしてきて、人件費が高くなって、

資源が高くなってくると、資本を投資しても戻ってくるリターンが減っちゃう。

それを利子率が0%に近付く、という状態に現れるらしいです。

今、日本も、ヨーロッパも、アメリカも全部利子率が0%近くなっているのは、

単に景気が悪いんじゃなくて、

資本主義が成り立つ為の条件が消えかかっているから、ということ。

だから資本主義がダメになったとかそういうことではなくて、

行き着くところまで行き着いた、ということだそうな。

問題なのは、この行き着くところまで行き着いたはずのものを

もう一回延命しようとしているところ。

それをやっていくと、もう周辺国は無いので、

同じ国のなかで、中心と周辺を作らなくてはならないということ。

 

日本で非正規が増えてきた、とか

アメリカでは1%が99%の人の資産以上の資産をもっているとかいう話ですね。

資本主義を延命していくということは、

この格差をどんどん広げていくことに他ならなくて、

それは同時に、民主主義という社会の理念までも

曲げかねないものであったりするわけだそうです。

(それが歴史の危機という言葉に表れています。)

 

で、最後には、カンフル剤的なものを打って今の資本主義を延命するより、

定常状態の経済になっていくほうが幸せだということで論は結ばれています。

 

定常状態、もしくは定常経済というのは、簡単に言えば、

新しく大幅な需要が創出されることではなく、

買い替え需要だけで経済が廻るような状態のことです。

乗っていた車を買い替える時に売買が発生する。

家も新規に建てる需要はほぼ無く(確かに中古の家は余りまくってるようですし、)

ただで住める家も出てきてしまうかも知れない。

そういった十分モノが行き渡っていて、

誰もが我先に購入したい、って思うようなブルーオーシャンがほぼ無いような状態。

それが定常経済というのかもしれません。

 

しかしこの本を読んで、

ようやくここ10年間くらいの持っていた気分の裏付けが出来たような気がします。

数年前のエントリーで、

 

物欲のない私たちが今欲しいもの - ちなみに広場について書いてます。

 

こんな文章を書きましたけど、そう、私たちの世代は、

生まれた時から十分にものがまわりに溢れていました。

一度もものがない、ものが欲しい、というような切実な気持ちになったことは無いし、

 一度も、何かものを持つことが自分のアイデンティティだって

考えたようなことも無い。

 

家を絶対に買わなきゃいけない、とも考えてないし、

車はこのエントリーの時から状況が変化して今は使ってますけど、

基本乗れれば良いっていうスタンスはあまり変わりない。

もちろん、村上春樹的な言い方をすると、

日常品にdecentな感じのものを使う、選ぶっていう基準はあるにしても、

過剰に欲しい、過剰に必要とする、っていう感覚は、30代以下の人は

おおかた持っていないんではないでしょうか?

 

ってことはつまり、もう私たちは、ここ10年間くらい定常経済的な感覚で

生活をしているのではないのかしら?と思ったのです。

世間的なものが標榜していることは、経済成長でも、

もう実際のマインドは定常経済状態になってたのです。もうだいぶ前から。

 

自分の私生活では、もうモノは行き渡ってて、いらないものはいらないよ、

っていう感覚なのに(だから断捨離があんなに流行したんだと思いますが、)

経済成長というお題目の下にいるので、勤めている会社では、

前年比何パーセントアップの売り上げ目指します!という目標を

建前上は追わないといけない。

 

自分の実感として、モノはもう十分行き渡ってるよ、っていう感覚と、

それでも仕事として売り上げアップを誓わないといけない、

その齟齬に身体的な気持ち悪さというか、身の置き所の無さというか、

そういうものを感じてしまっていたのが20代でもありました。

 

そうしてそういう違和感を抱えたまま働き続けられるほど鈍感でもいられない、

だから多くの若者が、就職3年目で転職や起業をするんでしょうね。

もしくはその現状に嫌気がさして、引きこもるか。

(この本の中にもそういうことを感じさせる一文があって、

鋭い、わかってるわ!と感じました。)

 

ただ私一つこの本を読んで考え方を変えたことがあります。

モノは確かに行き渡ってはいるけど、

大企業のモノを選ぶしか選択肢が無いというところから

もっと個人や地域で作るものを選ぶという選択肢にシフトしないと

そもそも今の資本主義から離れていけないんだな、と思い至ったのです。

 

モノは確かに行き渡ってるけど、このまま同じ大手企業のものを買っていては

結局今までのシステムから離れられない。

個人が作ったモノを売買し始めて始めて、それが王道になってようやく

今寡占状態の大手企業が、強欲であり続けることは

自分たちに利しない、と考えるようになってくる。

(とは言え、車や、家電や、エネルギーやそういったものを自分たちで

つくり出すってちょっとまだハードルが高い感じもしますけど…。)

 

 

ただ、気付いていなかった私よりも先に

そういったことを考えてた人はちゃんといて、

今この2015年に新しい生き方をする人として徐々に現れてきてる。

そういう人は、自分でナリワイを作り、小商いをし、

地方に移住し、野菜も作り、発酵食品も作り、服を作り、

シェアしながら、人とつながりながら暮らしている。

 

 

そう、この本で述べられていたことは、

こうやって10年間くらいに起こってる市井の人々の生き方と確実にリンクしてます。

資本主義はもう行き詰まっている、新たな生き方を探しなさいっていうのを

ここまで明快に問題を分かっていた訳ではないにしても、

なにかこうこのままこの資本主義とつながっていても

幸せなことはないに違いないってカナリヤのような感覚で掴んでいた人たち。

 

実際にそれで暮らしを成り立たせている人はまだほんの一部でも、

そういう方向に舵を切りたいと思っている人はかなりの数いるんじゃないかな。

こういう方向に生きていこうとする人がこれからは増えていくんじゃないかな。

 

そう思った読後感でした。

おっと、それに必要な場所について、ってやつをかけなかったので、

以下、続く!