ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

パーティマナーって難しい。

欧米の方々とパーティをやると迷うのが、
どう自分を自己紹介し、どう参加者の間をホッピングし、どう話題を連ねたらいいのか。
日本土着的パーティマナーは、たとえば鍋パーティならおこたにどっしりと根を下ろし、
トイレ、と立ち上がるまでは席を違えることなく、煌々とした明かりの下、
湯気を立てる鍋をつつくことであることからして、西欧の方々のパーティマナーとは相容れない物があります。

ここから察するに、西欧のパーティーは知らない人と知り合うためのものであり、
日本式パーティはもう知り合っている人たちのためのものである、っていえるんじゃないのかしら。

例えば、西欧のトラディショナルな会食は、
夫婦で来ている参加者は分かれてほかの参加者の間にすわるのがマナーだし
(参加したこと無いけど、映画で得られた知見によるとそうらしい。)、
誰か知らない人に会うたびに、「僕アンディ、よろしく、あえて嬉しいよ」
って紹介を受け、更に自分も紹介しなくちゃならないし。ああしんど。

欧米的パーティホッピング術は、常に次知り合うことに重きを置いてるから、
今話してる人と、いかに短すぎず、長引かせ過ぎず離れるかを考えてる訳で、
それってつまり、まさに今話している人をないがしろにしてるんじゃなかろか、って
典型的日本宴会育ちの私なんかは思ってしまうんだけど、
それは亀の甲より習慣のなせる技で、欧米の方々は気にならないものなんでしょうね。多分。
聞いたこと無いから分からないけど。

ホッピングでよく聞く技は、「あら、私飲み物取りに行くわ、」って言ってその場を離れるとか、
たまたま歩いて来た知り合いを捕まえて、自分が話してる相手に引き合わせて、
自分は「じゃっ」って言って次の人をハンティングしにいく、とか。
その離れる間合いはまさに経験でしか身に付かないから、
やり慣れてない日本人がパーティの席でまごつくのもまた道理というわけですな。

それにくらべて、日本のトラディショナルなパーティである宴会は、
広い畳の間に長々と卓がおかれて、三々五々に場所を取る。
そもそも夫婦で宴会に参加するっていう考えがないから、
年長者が上座を取る、っていう以外、あまり着席順に厳密な決まりはないのでは?

ただ言えるのは、お互いを紹介しあって、
全員と知り合いになるべきっていう感覚は日本的宴会ではあまり見られない。
それはつまりもうすでに全員が知り合いである、っていう前提だからこそ
起こることなんではないかしら。みんな知ってるからこそ、新たな知り合いを作らなきゃって、
その席からうろうろと移動する必要もないし、席を動くこと自体が、隣にいる人とその時間を
共にすることの拒否でもあるわけだから、そんな失礼なことはしちゃいけない、
それが日本の宴会のメンタリティな気がする。

つまり日本はみんな知り合いだからこそ、宴会をする。
欧米はお互い知らない人同士だからこそ、パーティをする。


そう考えると、そもそもなんでパーティや宴会をするか、
その理由も欧米と日本じゃ違うのでは、と論は繋がるわけです。
日本の宴会がどういうときに良く行われるかというと、
花見や、祭りや、正月。なにかを祝うとき。
多分、豊穣祭とかが起源なんじゃないでしょうか。収穫を祝う時。
収穫を祝うってことはまさに共同体で今年一年、
力を合わせて無事作物を育て上げたお祝いで、仲間内でのこと。

それに対して、欧米のパーティがどんなときに行われてきたか…。
こりゃまた全く想像が付きませんが、中世ヨーロッパが大陸続きで小国の集まりであって、
しょっちゅう国と国同士が対立して戦争してたことを考えると、
会食みたいなパーティは、相手がどんなことを考えているのかを
知るための手段だったんではないでしょうか。
相手がどんな考えを持っているのか、敵対国なのか、友好国なのか。
食事を共にしながら相手を探ろうとしたのがパーティだったのでは?
きっと、互いの妻を相手の隣にすわらせるっていうマナーは
妻を人質として相手の隣にすわらせたっていうところから始まったものなのでは?
と思うのであります。まさに第三者と知り合うための機会、が会食であり、
パーティだったのでは、と考えるのであります。
(おぉ適当!でも当たってそう。なんかそんなことが書いてある本ないかな。)

その流れを汲むのが欧米的パーティで、だからこそパーティで相手に自分を知ってもらうのは当然、
どんどん知り合いになるのがパーティの存在理由といっても過言じゃ無い、と。
そもそも知らない人ばっかりあつめてパーティしてそうだし。

それに対して日本の宴会は、知り合い同士で事を祝うのが始まりだから、
あまり第三者と知り合う場所だと考えられてない。
どんなに日本のパーティがパーティらしい格好をしていても、
参加している人たちに第三者と知り合う術が身に付いてないし、
そもそもそんなマインドセットではないので、見た目は西欧風の、
内実は宴会っていう形になっちゃう訳ですな。
そしてこちらでは、知らない人を連れてくのは、遠慮した方がよさそうなことが多いし。

ここ数年、年頃めいてきたのもあり、慶事に呼ばれる事も多いけど、
どの結婚式も良かった、有意義だった、と思えないのは、多分、
どんな素敵なパーティ会場でやってても、その内実が日本式宴会に過ぎないから。
日本式宴会が悪い訳じゃないけど、知り合い同士で座って、出された料理をつつき、
ちょっと昔話をし、結婚した二人の写真をとり…って、会社の同期や、
大学の同級生でほんの短期間の間にそれを4,5回もやれば、飽きますよ。
結婚式に参加してる人同士で話が盛り上がったりすると面白いけど、そんな式、一回くらいしかないなぁ。
結婚する二人にとっては準備から何からやること目白押しで忙しいだろうけど、
参加する側にとっては結構結婚式ってつまらない。2時間すわってるだけだしね。
やるなら、参加する人全員に刺激を与える式にしたいものです。ダンスパーティとかね。
そういえば、来週結婚式あるわ。うーんどんな結婚式か楽しみだなぁ。

話が飛んだ。

今回の話は、前々回のエントリーで書いた、社会や家っていうシステムは
第三者が入ってくる仕組みをビルトインしておいた方が、上手く廻るんじゃないのかしら、って話。
にもつながるんだけど、この西欧式パーティで培われるメンタリティは、
まさに、自分の領域に第三者が入ってくる時の自分の心構えそのもの。
どう初対面の人に対して自分を開くか。どういう距離感で相手と対するか。
それを鍛えてる。

じゃあ、日本人は新しい人と知り合わないのか? そんなこたないはずだけど…。
でもじゃあ、いつ知り合ってるの?って考えると、日本人が新しい人と知り合うときは、
職場や学校で毎日の生活を共にしていきながら、お互い知り合いになる。
そういう意味では、何度か恒常的に会う可能性が無い人だったら、
たった一回だけ会うような人とはまったくコミュニケーションを持たなくてもやってける。
もちろん相手に気付いてはいるけど、やり過ごす。無視する。
何度か会うようになってはじめて言葉を交わすようになる。
ふむ。
はじめての人が苦手なのはそのせいか。
そこまできてみんなが徐々にお互いに声をかわし、知り合ったな、っていうところで
ようやく飲み会、っていうものが出来ることになるわけですね。やっぱり構えがちがうのね。

西欧人だって、全く知らない人よりかは、知ってる人の方が楽しいって思う事も多いだろうけど、
知らない人がいるからってパーティを楽しめないって事も少なそうよね。
お互いのことを知らないって云うことは、パーティなら当たり前のことで、
知らないことを前提に、それでも共通に分かり合える事柄で楽しもうと話題を出すんだろうから。

どちらにも良い点・悪い点あるんだろうけど、
西欧式のパーティ方法で得られる第三者と知り合う術は、見習う必要があるんじゃないかしら、
と思う今日このごろ。ふむふむ。なるほどね、と。