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割れ窓理論の逆を行く。

ようやく本格的に都市計画の事でも勉強しようかと、
重い腰を上げました。

記念すべき一冊目。
「美しい都市をつくる権利」五十嵐敬喜
法政大学法学部教授。弁護士。1944年山形生まれ。
専門は立法学。不当な都市計画や建築に対して市民の立場からの
弁護活動を行う。又、従来の公共事業に対する鋭い批判を行い、
公共事業見直し”の流れを作った。
一貫して人間をないがしろにする日本のシステムに立ち向かい、
現在は右傾化する改憲論に対抗する「市民の憲法論」
の構築に取り組んでいる。

以上、奥付より。
つまり、この人は、弁護士の立場でまちづくりに関わってきた人…っていうのが
今までの所の私の理解。
この本では、ハワイ・コナ、広島・鞆の浦、アメリカ・コロンバス、
群馬県新治村、イギリス・エディンバラを実際に訪れた際の
街の分析や、その街がどういうシステムの上に成り立っているのかを
読み解いています。
建築家ではなく、弁護士なので、
どういうシステムが美しい街並みを可能にしているかを法律面から
説明しているのが新鮮。

まだ読み終わってないので、今日は一部抜粋のみでお茶をとろかす。
日本語のコロケーションがゆるみ気味。

p214
何もできない

高層マンション建築反対を公約して当選した市長がどんなに頑張っても、
また圧倒的多数の市民がこれに抗議しても、更にすべての制度を動員しても、
不当なマンションを倒すことができない。
誰が見ても、本当に美しいと思われる海が埋め立てられる。

また、地域の人々それぞれが一生懸命頑張っても、みんなの向かう方向がすれ違っている。
国立、鞆、そして新治村
これらは明らかに、コナ、コロンバス、そしてエディンバラと異なった。
コナ、コロンバス、エディンバラでは市民の美しい都市に住みたいという欲求は
きちんと条例、マスタープランにまとめられ、事業者もこれに従っている。

日本にも同じように条例やマスタープランがありながら、
事業者(企業だけでなく、行政も)これには従わない。
なぜこのような違いが出てくるのか。また本当にこんな事でよいのだろうか。

表面的なことだけを言えば、
さすがに「これはよくない」と考えられるようになってきた。
最近の「建設白書」を見るとかつては振り向きもされなかったような
「景観」が大々的に取り扱われていることに驚く。
まちづくり”はいわば無機的な建築確認に対して、
市民側が対抗軸として使った言葉であった。
海や河川の環境汚染に対して今や、多くのNGO環境庁国土交通省と一緒に、
アシを植えたり、ゴミを拾ったりしている。(中略)
にもかかわらず、
誰もが都市が美しくなるとも、問題が解決されるとも考えない。

相変わらずの官僚支配、建前と本音の乖離、
何がよいかという点に関する価値の分裂、経済優先、
住民の環境意識の低さ、その他、もろもろの原因をあげることができる。
それらはすべて事実であり、いずれももっともである。
しかしこの中から一つあげろと言われれば、
何かがおかしいと感じても、又多くの人が反対しても何も
「変えられない」ということだ。
すなわち、マンションも埋め立ても「合法」である、
ということだ。「合法」に対して、市民は何もできない。


って、事なんですわ。
合法なんです。みんな。美しくないこの街並み全部。
このあと話は、美しい街をつくる「権利」をつくっちゃえ!
って話は続くんですが、この弁護士先生の言うとおりな気がします。
条例やマスタープランで事業者に縛りがかけられないなら、
法律や憲法のレベルで美しい街を作ることを「権利」にしちゃう、
そうしないと日本に美しい街ができることはないんでしょう。

最近読んだ本何冊かは、
政治の力がいかによりよい世の中をつくるのに向いているシステムか、について書かれていて、
その流れで行くと、この街並みってトピックも、福祉や、教育や、医療保険同様に
政治で争われておかしくないトピックなんですね。
ちなみに、何冊かの本って言うのは、
「暴走する資本主義」と小浜くんの「合衆国再生」。
脱線しますけども、「合衆国再生」なかなかに感動的な本でした。
うっちーと目指すところは近いのに、態度がとても素直なので、
うっちーがやけにニヒルに思える今日このごろ。

だけど、日本の政治家はなんでおばまくんみたいに自分の政策理念を
分かりやすく書いた本を出さないんだろう?
みんなが自分の理念を本にして出せば、一発でその人のポリシー分かるのに。
その人が賢いかどうかも明白だし、街頭で叫ぶだけより、よっぽど
有権者を説得できると思われるんですが…。
阿部さんの「美しい国へ」でも眺めてみようかな。

とりあえず、読書途中経過報告でございました。