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どうして諸外国(特に欧州)は柵・フェンスなしの街路を作れるのか

にゃにゃにゃのにゃー。
夏風邪はつらい物ですな。
暑いのにさらに熱くしなきゃならないところにジレンマ。


さて今晩のエントリーは、
「どうして諸外国(特に欧州)は柵・フェンスなしの街路を作れるのか」
それってつまりひるがえって言うなら
「どうして日本はフェンスや柵や網を立てて、
ことさらに隣地との境界や境目や区分を言い立てるのか」



だって、日本って、隣地が隣り合ってたらこっちの敷地の端にも、
あっちの敷地の端にもわざわざ万年塀(コンクリートブロックの塀ね)
を立ててあったりして、不思議。どうしてそこまで
境界を叫ぶの?



まあ考えられるのは、
土地に建てるものをどう取り扱うかには二つの基準があるんだろうな、と。
一つ目はこの土地は誰の物かっていう、目には見えない決まり事を
誰の目にも明らかにしておく必要があり、
二つ目は土地に建てる建築物自身(建築物そのものじゃなくても。塀でも、フェンスでも、構築物ってことでもOK)が良いものかどうか、ってこと。



一つ目の基準は、これ単体なら満たしやすい。
だってとりあえず敷地との間に柵かフェンスかなにかを
建てればいいんだもの。それで一丁あがり、ってなるから。
あと、これは、今回の境界線に関して言えることじゃなくて、
たとえば広告だったり、標識だったり、土地や建物そのものでは
表現出来ない類のことすべてにあてはまることですね。
誰の目にもクリアにわかる広告、標識、それを表現する必要が
あるってこと。



ところが二つ目の基準には、明確な判断が下せない。
だって、美は主観で判断されるものですから。
この二つ目の基準が素晴らしいレベルになると、
街並みの向上にとてつもない付与をするんだけど、
なにしろ明確な基準がないうえに、短期的な即効性がないから、
あまり促進されてない。とくに
権利者が細かく分かれてる地域では。



問題なのは、
土地になにかを付け足す時、(建築物建てるでも、構築物付けるでも)
本当はこの二つを同時に満足させなきゃいけないってこと。
表現する必要のあることは適切に表現し、
かつ、その土地に建つ物として美しいかどうかもきちんとする。



日本の街並みだと、この一つめの基準だけで
物事が進められてる。
こっちの敷地とあっちの敷地を区切ることに頭がいっちゃって、
それがどういう風に街中では見えてくるかってことに
リソースが使われてない(おぉ、うっちー風)
やだなぁ。



街中の広告だってそう。まだ値段を連呼してる広告板ならまだしも
(やだけど、)
「こんなに素敵なお洋服です」とか(ないか)
そんな素敵なお洋服うってる店の看板がどうしてそんなださいの?
っていう矛盾。



うん?話はまとまったかな?
つまり、きっと諸外国(特に欧州)の皆さんは、
この2つの違う次元の基準をじょうずに切り盛りされてらっしゃる。
どちらかというと一つ目の基準のほうが
明らかな必要に迫られてるものだから、
つい、前へ前へとぐいぐいと出てきそうになるのを、
「ちょっとお待ちよ、お前さん」っていって止めてるんでしょう。
「お前さんがそこへ出てきちゃ、
この土地も世間様にどう顔向けしていいか分かるめぇ。
まぁ、ここはあっしにまかせて、
ひとつここいらで収まっといてくんねぇかい」
ってな感じで。いいな、欲しいなうちにもそんな江戸っ子。




だから結論としては、
諸外国に柵やフェンスや網が無いのは、
「確かに誰がどこまで土地を持っているかを分かりやすくするのは
大切だけれども、
それよりも大切なのは、この土地が美しく見えるかどうかである。
ここに柵やフェンスや網など立ててしまえば、
美しさは半減する。故に立てさせません」
っていうのが建築基準法上決まってるか、
民意の中に流布してるか、どちらかですね。
そのどちらかは知らないけれども。
結論になったかしら。