ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

「広場の造形」は都市には美しさが必要だってことについて語った本だった。

うぉぉおぉぉ、のんびりしてたわけじゃないんですけど、

4月も7日を過ぎてしまいました。

春休みは慌ただしい。 

 

さあ細長い場所よりも、丸い場所の方が広場という機能に向いている、

という結論が前回出ましたね。

どこかへ向かうというベクトルが働いていない方が良い、ということも見えました。

 

 

さて最近、カミロ・ジッテに挑戦してます。

ブログの右側に貼付けてあるtwitterではちょいちょいつぶやいていたんですが、

カミロ・ジッテの「広場の造形」という広場本のバイブルに

チャレンジしてたんですけども、まあこれが難しい難しい。

読解力がもっとないとちょっと読み切れない。

というわけで決してすべての内容を100%理解したとは言い難い状態ですが、

 いろいろ書いてみたいと思います。

 

広場の造形 (SD選書 (175))

広場の造形 (SD選書 (175))

 

 

さてこの本を読み解いていったところ、

この私が広場をほしい、っていう理由とは違う所でジッテは

広場について語っているのがうっすらと見えてきました。

 

私はどちらかというと、

人として広場があった方が、より良く健康で文化的な生活が

送れるんじゃないか、っていうのが目的で広場について

考えているソフト面重視派なんですけども、

ジッテはもっと

都市は美しくあるべきだ、っていうハード面主義から

この広場の造形を著している感じなんですね。

 

ジッテが広場の造形を書いた時は、

広場が無い、というわけではなくて、どちらかというと

昔あった素晴らしい広場(もしくは都市)が今その姿を消そうとしている、

美しい広場を無くしてしまっていいのか、

都市が美しくなくなってしまっていいのか、

そういう危機感がリアルにあって、

それが彼にこの本を書かせた理由なようです。

 

 

良い広場とはこうあるべき、っていう規則性を

見つけ出して語っているのがこの本の前編部分なんですが、

後半は、都市がいかに芸術的な美しさが必要か、

そりゃもう言葉を尽くして語っています。

 

そもそも邦訳は「広場の造形」ですが、

ドイツ語本来の題は「芸術的原理に即した都市計画」

というくらいなんですから。

 

さあ、ではせっかくなのでジッテの嘆きを生で聞いてみましょう。

この本が書かれた1880年代、建物そのものにはこだわっていろいろな

装飾物やら飾り立てるものにお金がかけられているのに対して、

都市には全然お金がかけられない、全然考えられてない、ということに嘆いている

ジッテ先生です。(ジッテ先生は都市計画家です)

 

ところが、都市計画家が柱廊(ちゅうろう)やアーチ門(もん)、凱旋門

 

(がいせんもん)その他芸術上必要な多くのモチーフをつくる段になると、

 

びた一文も見つからないに決まっているのである。

 

「建物ブロック」の間にある空いている空間を芸術的に形成するため、

 

都市計画家にまかせることはまずないだろう。

 

というのは、それ自身一文(いちもん)もかからない野外の空間は

 

土木技師(どぼくぎし)と衛生学者(えいせいがくしゃ)の管轄に

 

属するものだからである。

 

こうして、芸術的と指向性の優れたモチーフはみんな

 

一つまた一つと消えてゆき、ついには何一つ残らず、その記憶さえも

 

消えてしまうのである。

 

泣いてますね、先生。

もう一つどうぞ。

 

芸術作品としての都市計画について、今日では、もうだれも関心を

 

持たなくなってしまった。 関心があるのは技術的問題だけである。

 

(註:技術的問題というのは衛生的か、増えてきた自動車に対して

適切な都市設計になっているか、という点らしいです。)

 

(中略)現代の美術史では、どんなちっぽけながらくたでも

 

ことごとく扱うくせに都市計画となるとほんのちょっとした場所さえ、

 

一度も与えられないのである。これに対して、製本屋だとか、錫器師

 

(註:スズの器をつくる人のこと?)、さては仕立て屋さえ、フィディアス

 

や、ミケランジェロに近い場所を占めている有様である。

 

 恨み節全開(笑) 

 

そうそう、とにかく嘆きまくってるジッテ先生なんですけど、 

瞠目(どうもく)したのは、この考え方。

 

今の時代(この2015年ですよ)どこかの区画を建物やら必要なものを

建てて都市の一部にしていく、って話があったらまず、

建物の形考えますよね?

 

 

 

 

 

f:id:cheelee:20150407163326p:plain  ←こんな敷地があれば、

 

 

f:id:cheelee:20150407163535p:plain  ←こんな建物にしようかな、とか

 

f:id:cheelee:20150407164123p:plain ←なんならこんなんにする?とか。

 

普通は、そう考えるじゃないですか。

 

 

 

ところがですよ。ジッテ先生が言うことにはですよ、

違ったんですってよ。そう考えるのがそもそも違うんですってよ。

 

このように考えてくると、私たちは、問題の真の核心に近付いてゆく。

 

現代の都市構成の方法では、建物の建っている部分と空いている部分の

 

関係は逆転している。

 

かつて空いている空間(道と広場)は、しかるべき効果を与える為に

 

形をよく整えた閉ざされた構成を持っていた。

 

これに対して、今日では建物の敷地の方が閉じた規則的な形として

 

切り取られ、そのの頃が道と広場になるわけである。

 

昔は歪んだ角や醜いものはみんな建物の敷地の内側に見えないように

 

おさめられていた。ところが今日では、

 

敷地を切り取った残りの部分がすべて広場になるのである。

 

つまり、先に、建物を建てない空間の形をかっこよく決めちゃうんですって!!

すごいな。建物が建たない空間のほうが先に形が決まるなんて。

それで、その空間がちゃんとつくれるようにまわりの建物をそれに

あわせて建てていくっていうことなら、

そりゃあ素敵な広場がつくれるわけだわ。まず広場があるんだもんね。

 

うーん、この考えは目から鱗でした。

続く!