ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

道は広場だったのに、どうしてなくなっちゃったのか。

ということで、日本には広場的なものがあったし、

それは道だった、という説を私の中で認定した一昨日でした、こんにちは。

毎日連続更新記録がストップしてしまいました。くぅぅ、残念。

これにのって、これからはぼちぼち更新にします、と方針変更。

 

ということで、今日はそれに続く考察。

 

日本の道に3つ目の役割が課せられたとき、日本の広場は消えた。

日本の道が広場だったという説から

日本の道に課せられていた役割を図式してみましょう。

江戸時代から、明治、大正、そして戦争を経て戦後すぐくらいまで

日本の道には、2つの主な役割が課せられていました。

f:id:cheelee:20150326112234j:plain

こうですね。

大きな通りには、道という機能の他に、にぎわいの場という機能が

割り振られていたのです。これは前回までの考察。

 

ところが、1960年代半ばに、新三種の神器の中の一つであった、クルマが

普及し始めると、道には新たな役割が課せられてきます。

(ちなみに新三種の神器はカラーテレビ・クーラー・カーだそうです。)

つまりこんな感じ。クルマの通る道、という役割です。

 

f:id:cheelee:20150326114251j:plain

おお、賑わいが、随分と小さくなってしまっている…。

クルマを通す、という役割が課せられたことによって、

賑わいの場、という要素が駆逐されてしまったのですね…。

 

 

ヨーロッパの賑わい機能は分離していた

f:id:cheelee:20150326121013j:plain

それに対し、イタリアやヨーロッパの都市では、

クルマの普及は日本より少し早い時期に本格化しましたが、

たまたま道の機能と賑わいの機能が完全に分離していたので、

クルマが導入されてもこの賑わい機能が衰えることにはつながらなかったのです。

 (とは言いつつも、ヨーロッパの町は町で道路が狭すぎて、

駐車場問題がものすごいことになっていそうです。最近は中心市街地に

クルマの乗り入れを制限している都市もありますよね。)

 

内田本に見るクルマが普及した時代

内田樹先生が、

東京オリンピックで失われたもの、ということを以前書かれていましたけど、

東京オリンピックはまさにクルマが普及した時代とかぶっています。

(というか東京オリンピックがあったからこそ普及したんですかね…。)

 

北京オリンピックに思うこと (内田樹の研究室)

 

友人のビジネスマン平川克美くんは

 

「中国人が北京オリンピックで失うものは、日本人が東京オリンピック

 

失ったものの10倍規模になるだろう」と予測している。

 

私の実感もそれに近い。

 

中国の人々が北京オリンピックで失うものは

 

私たちの想像を超えて巨大なものになるだろう。

 

こういう国家的イベントによって失われるものは

 

「かたちのあるもの」ではない。むしろ、

 

「かたちのないことが手柄であるようなもの」である。

 


日本の場合、それは「何となく風通しのよい敗戦国の脱力感」であった。

失ったのは、 敗戦国の脱力感、とありましたが、

賑わい機能をこの時代に失ったんだとしたら、

失ったものは、戦争の時代よりもっと前から連綿と続いていた、

人と人が日常的に接する技法や、

場を作る方法みたいなものだったんじゃなかろうか、

と思い至るわけです。

 

内田先生の場合は、同時に、

オリンピックと前と後で、人の心の持ちようが変わった、

という話をされてましたけども、

空間が心の持ちようを変えることもあると思えば、

この道から賑わいの要素が駆逐されたことによってもたらされたのが、

人の心の変化だったのかもしれません。

 

 

同じく内田先生の昭和のエートスの中には

もうちょっと具体的にクルマに関することが書かれていましたね。

高速道路が1964年開催のオリンピックに向けて

整備されている様子を書かれてます。

 

首都高速日本橋の上にかかった写真を見た時には、

 

子ども心にも深い衝撃を受けた。

 

そこまでしなければならないほどのものなのか、といささか

 

暗澹たる気持ちになった。けれども、口に出しては言わなかった。

 

小学生のそんな感懐を聞き届けてくれる人はどこにもいなかった。

昭和のエートス

昭和のエートス

  

 クルマ、憎し!とわめいても仕方ないのですが、

(クルマの恩恵にも、ばんばんあずかっているのです…。)

賑わいも取り返したい。うーん、やっぱり広場か…。