ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

定常経済になるってことは、毎日の生活に幸せを見出だす力が必要になるんだ。

さてさて“資本主義が終わる時代に現れる生き方”なんて堅めの

感じで広場に言及しましたけど、

広場の力はね、別に商いや商売のためだけじゃないんです。

 

 

資本主義が終わる、そして定常経済になっていくっていうのは

どういうことかって言うと、

高度経済成長時代にみんながもっていた幻想が崩れていく時代です。

今日よりも明日、明日よりも明後日、先の未来の方が幸せになるんだよ、

っていうのが本当に信じられていた、そういうものが溶けていく時代。

 

なんか書いておきながらなんですが、こういう言い回しをしょっちゅう見るから、

バブル後世代としては、ほんとかよ、って思っちゃうんだけど、

それに対する実感のこもった回答を見つけたので紹介。

 定常社会について本を読もうと思ったら飛び込んできた本です。

 

新・幸福論: 「近現代」の次に来るもの (新潮選書)

新・幸福論: 「近現代」の次に来るもの (新潮選書)

 

 

そしてこの時空の中で,人々は自分が豊かになっていくことを

実感したのである。確かにこの時代に生活は激しく変化した。

1953年に放送を開始したテレビは、1959年の「皇太子(現天皇)ご成婚」

の中継をテレビで見ようとする人々を生み、

1960年前後に大きく普及していった。

当時は、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機の「三種の神器」を揃えることが

庶民の夢だったけれど、1960年代中葉には、

それらを持たない人の方がめずらしくなっていた。

1957年には女性週刊誌が創刊され、新しい出版マーケットを

つくり出していった。

三種の神器」も1966年になると、自動車、カラーテレビ、

クーラーへと変わり、その頃から海外旅行も一般の人の手に届くものに

なり始めていた。

こうして家を購入し、さまざまな商品を手に入れ、

子どもを大学に進学させる生活が実現していった。人々はまぎれもなく

豊かさを享受していった。

そしてこの時代に人々は仕合せだった。なぜならこの豊かさの中に

幸せがあるというイメージが人々を包んでいたからである。

このイメージに包まれて人々は幸せを感じた。

 

高度経済成長期はもう40年くらい前のことだから、

想像力を駆使して考えるしか無いけど、

この短い期間で、生活を一段と便利なものにするものが出てくるって言う状況は、

今の私たちにとってみたら、

日本がまるまる他の国になっちゃうような感覚だったんでは、って思います。

(うーん、ちょっと説明しづらい。)

私がイタリアに行ってポジティブなイメージをイタリアに持っていて、

日本もこうなったらいいのになぁ…って思っていたら数年後には

ほんとにイタリアになっちゃった、みたいな。

憧れているものに近づけているんだったら、

そりゃあ幸せになるルートを歩んでるぜ、って思い込んじゃうよね。

 

ただ、それを信じられたのは、ある年代の人までで、このあとに、

「だが今日では、このイメージの中に幸せを感じない人たちがふえてきている。

特に若い人たちはそうだ。イメージの変容が、感じられる世界を変えたのである。」

と続いていくのです。

時代がかけてくれた魔法が、徐々に消え去った訳ですね。

 

つまり今までは、よりよくなる明日の為に今はこれを我慢して耐えよう、とか

ここを踏ん張ればもっと良くなる、とかそういうロジックが使えたんだけど、

もう、明日がより良いとか、成長でもっと良くなるっていうイメージは消えてしまった。

 

成長することで幸せになるというロジックが消えても

それでもまだ幸せになる、なりたい、という希望はきっちりあるのなら、

もう、今すぐこの毎日の生活の中で幸せになるしかありません。

ってことはつまり、毎日の生活に幸せを見出だすことが必要なのです。

それがきっと定常経済になるっていうことなのです。

 

でも、今生活の中で幸せを見出だすとしたらどんなことがあるでしょう。

朝起きて、8時から5時まで、もしくは、9時10時まで

月曜から金曜まで働いていたら、

幸せを見出だすのなんて、帰りの電車で見るスマホくらいです。

コンビニスイーツとか。家帰って開ける一本のビール(第三の)とか。

 

それも幸せですけど、たしかにそれも幸せですけど、

それだったら今までの社会と変わらないんじゃないのかな。

もうちょっと上質な幸せがあってもいいんじゃないのかな。

そしてそこにあったらきっと上質な幸せをつくりだせるんじゃないかな、

と断言できるのが、広場なのです。

 

なんかもうたびたびですけど、イタリアの話。

 

イタリアを暇なバックパッカーで旅行してる時、

たまに訪れた町の広場を(たまに散策を交えつつも)

朝から夕方まで眺めているような時がありました。

 

イタリアの広場は、朝のおばあちゃんの八百屋さんへの買い出しから始まり、

常に誰かがいてにぎわっているのですが、

広場の賑わいのピークは、大体3時、4時くらいなのです。

 

その時間は、学校帰りの子ども達や、その子ども達のお母さん達や、

犬の散歩をしにきた今日広場2回目のおじいちゃんおばあちゃんや、

とにかくいろんな人がいるのですが、

面白かったのは、そのくらいの時間になると、

きちんとスーツをきたいわゆる働き盛りといった男性までも

広場で、誰かと立ち話をしていたりするのです。

 

なんかこの、夕陽の差し込む中での広場での時間が

独りでカフェからその様子を眺めているだけの私でも、

幸せを感じる空気感でした。

 

きっと日本のそれぞれの町に、そんな広場があったら、

それはそれは素敵な光景が毎日見られるのにな。

きっとたくさんの人が、毎日夕方、人の様子を眺めに広場に行くだろうにな。

 

一番広場に行くのは、時間のあるおじいちゃんおばあちゃんや、

小さな子どもを連れたお母さんたちかもしれないけど、

(多分JKも学校帰りのマックの代わりに使うに違いない。)

働き盛りの男の人や女の人も、仕事の休憩で広場に降りてきて、

子どもたちの歓声を聞いて、ちょっと幸せな気分になるだろうし、

仕事が早く終わった日は、明るいうちから広場にある

立ち飲み屋さんで一杯引っ掛けていったりして、

それはそれは幸せな感じ。

 

そんなことにも使えるのが、広場なのです。